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ただただつらつらと駄文(面白くないです)

すっかりあたたかく…というか、暑くなりましたね。

冬の絵を描いて、春の絵を描いて…いやいや、もう夏じゃないの?という気候ですよ、どうしよう。


今年はパネル作品をちょこちょこ描いてます。

冬の大きな作品と、春の20センチ角のグループ展に描いた作品が出来たので、夏と秋の絵も描きたいなあと特に展示に出す予定もないけれどぼんやり考えています。


パネル作品は、額装に比べて絵そのものが近くで見られるのが1番の差だと思います。

その分湿気や汚れ、紫外線に弱いのですが、ガラスやアクリル板の反射を気にせず、絵の具の色やにじみ具合、紙の風合いも楽しんでいただけるのが醍醐味かなと思います。


パネルそのものも額装に比べると随分と安価なので、絵の価格を抑えられるのも個人的には気にっています。額装しちゃうとどうしてもお高くなってしまう…。

とはいえ売れる売れないは、もはや度外視なので(もちろん売れてくれたら次の絵を描いたり、展示に出したりするお金が捻出できるし、欲しいと思ってくれた人がいる、という嬉しさが、やはりダイレクトにモチベーションに繋がるので物凄くありがたいのですが)この頃はあれやこれや悩まず、自分だったらこのくらいの値段だったら買う、と言う値段をまずは考えて、そこから材料費(この場合額やパネルなど。紙代や絵の具代は含みません)を引いて、マージンを考えて…と言う感じで調節します。あまりにも原画代が安くなる設定にはしない。そうすると、案外それなりに長く続けてきた経験からか、大体市場価格(あんまり言い方良くない気がするけれど)程度かな、という範囲に収まるようになって来ました。


私は感覚でしか物事を捉えられない方で、理論も考えるには考えるんですけど、いやもう本当に物知らずでバカの考え休むに似たり…を地で行ってるな〜と思うので(卑下ではなく、本当に物事を知らなさすぎると思っています。日々新たな発見の連続です)最終的な判断基準は経験則と体感なのです。それがある程度世の中に溢れている何事かの平均的範疇に収まると、ああ、少しは慣れてきたのかな、と感じると言った具合です。

まあ世の平均に収まることが良いことなのかと言われると、わからん、としか言いようはないのですが。


前にTwitterでつらつら考えていた、目の不自由な人用の点字ブロックについてなんかもそうですが、当事者でもない自分ではありますが、目が見えなくなる、見づらくなると言うことがどれほど大変なことか、というのは少しは理解できると思っています。(目を閉じて歩くことは出来ないもの)

でも、最近はおしゃれブロック(灰色などで塗られて風景に溶け込んだようなブロック)が増えていたり、横断歩道の信号が変わるときに昔はよくカッコーの声があっちとこっちでしていて、渡って良いよの合図になっていたものがあったと思うのですが、随分減ったように感じたりしています。他にも、道の隅っこに配置されていて、お店の看板が上に乗っかっていたり、自転車が停められていたり、そもそもそんな道の端っこにあって、そこに杖を当てながら歩くとして、杖をついた歩行者はどこを歩けば良いんだ???と感じたり。


私自身がそういう状況で歩いているわけではないから、もしかしたら道の端っこにブロックがあることには何かの利点があってそうされているのかも知れないです。だから訳知り顔な批判はできません。でも、本当は「これって本当にこれでいいの?」と感じたことは、もっと深掘りして、たとえば行政に聞いて、本当に目が不自由な人のためにそうなっているのではなくて、むしろ困っておられるならば、良い方向に向かうように何かできることはないかな、って考えるところまでやるべきなんだろうな、とは思っているのです。

でも、そんなことはしない。

日々の生活があるから、忙しいから、言い訳はいくらも出てくるけれど。

本当の理由は、自分に関係がないから、なんだろうなと思っています。

そしていつか、自分がそういう立場になった時には、きっとそういうもんだからな、って諦めるんだろうな、と予想しています。そういうタイプだから、私は。


何ができるだろう、こうであって欲しい、と思うところまでは誰だってできる。

でも何かをするのだ、こうなるようにするのだ、という活動までできる人は少ない。

そしてそういった活動をされる方は、時に批判や冷笑に晒され、辛い思いをされることもあるかも知れない。あるいは、初手から社会に対して間違っている、と怒っておられるかも。(そのせいなのかどうかはわからないけれど、幾分攻撃的になって、ますます対立が深まる事態もあるように感じる)


大阪の駅周辺や地下鉄周辺の道は、今急ピッチで工事工事の連続で。

目が見えてたって、道が変わるのに対応しきれないのに、なんの断りもなく点字ブロックは位置を変えられ、それに対する音声アナウンスも案内する人もいない。どこにも。

せいぜいマンション建設現場は、ガードマンがいてくれる程度だけれど、それも夜間になれば誰もいなくなってしまう。

何か対策はなされないのかな、と思うけれど。

やっぱり声を上げる人はいないんだろうと思う。私も含めて。


全ての人の権利が全て守られる、ということはない。

私は捻挫をよくする。よくこけるからなんだけれど。

その時は、点字ブロックにつまづいたんだなこれが。多分疲れて足がちゃんと上がっていなかったんだろう。

だからと言ってこんなところに点字ブロックを置きやがって!なんて絶対に思わないし、言わない。だって見えてるのに勝手に転けたのは私なのだし。

捻挫して、狭い道に点字ブロックがあって避けようもなくその上を歩くしかなかった時は、やっぱり少し怖かった。困る、とも思った。

でも、やっぱりそれは必要な人がいるからあるもので、だからそれをどうこうして欲しいとは思わない。せいぜい道を広くして欲しいとか、放置自転車取っ払って欲しいとか、そういう程度の希望は思うけれど。(道を広くするには、住んでる人の家を削るしかなくそれはそれでとても困る人が出てきてしまう)


そりゃあ誰もが快適ハッピーで生きられる世の中ならそれが1番良いけれど。

現実的にそんな全員がハッピーでいられる社会はまあまず絶対にないと思う。

ごくごくごく小さなコミュニティならあり得るかも知れないけれど、相当気が合ってたり、お互いのことを理解していないと相当難しいのではないかなあと思う。単に私が人間苦手だからそう感じるだけかも知れなくて、簡単だよ!って踏み越えていける人もいるかも知れないけれど。(凄いとは思うけれど、私はそういう人とは少し距離を置いていたい。キラキラして眩しすぎて少ししんどいので)

だから、許容できる範囲の不自由や不便は、許容できる度合いの大きめの人が許容すれば良いんだろう、とも思う。

思うけれど、毎度毎度許容する側になってしまう人がいたら、それはそれでやっぱり限界が来ると思う。人間のキャパシティは多い少ないはあれど、限界がある。それに、不公平感を感じる心はどうしようもないし、やっぱりそれはあると思う。我慢ばかりさせられて嬉しい人がいるか、といえば絶対にまずいないでしょう。


私で言えば、子なし独身女性ということで、まあ子育て中の女性の代わりに独身男性以上に働かされることが多い。子育ての大変さはわかるし、子供のためにむしろ休め!と言いたくなるし、言うけれど、さすがに10連勤とか残業5時間が続くと勘弁してくれと言いたくはなる…。笑ってるけど、しんどいもんはしんどい。

(今現在は職場復帰してくれているけれど、だからといって私の休みが増えるわけではないし、今度私の恒例祖父などの看護で私が休むにしても、結局子なし独身の誰かしらに皺寄せは行くのである)

それをネットで言うと、一気にママさん方に叩かれる未来が想像できてしまう。怖い。

気軽に思いを発信できるはずの場所だけれど、当然全ての思いや背景をあの短い文章で説明できるわけもなく、結局言った人は吊し上げられてしまうの怖いなあと思うのです。

似たようなことに加担してしまっていないか、と言われるときっとしてしまった過去はあると思うので、人のことは言えないけれど。みんなが個々に思ったこと言う怖さ、と言うのは先日自殺なさった漫画家の先生の例を引かずとも、日々感じることなので、いらないことはネットでは言わないに越したことはないと自戒するよう心がけています。無自覚な加害になることの怖さを噛み締めなければ。


何が正しくて、何が間違いなのか。

それを完全に白黒つけることは絶対にできないと思う。

人はそれぞれの考えがあり、背景があり、思いがあるし、立場もあるから。

それでも人はその社会の中で生きている。沢山の違う思いや考えを持った人間が同じところで生きている。

であれば、ある程度の道筋をつけないといけない。法を整備しないといけない。

法は、とても厳格なように見えて、それでも全てのケースを想定はできないから、必ず抜け道がある。綻びがある。

そもそも人間が決めたルールなので、別に本当はそれが「正しい」とは限らない。

でも、法治国家においては、法は遵守されなければならない。

いかに悪法であっても、その法を改正するには法による手続きが必須である。

(だから裏金でウハウハしている悪い人たちが法によって裁かれるべきたと思うし、悪い人たちがいるからと言って、じゃあ我々も同じことをしていいとは絶対にならない)


でも法を決めるという行為も難しいなあと凄く思う。

どこかに線を引かないといけない。ここからは救う、ここまでは救わない。

非人間的な部分を持って割り切る以外にやりようがない気がする。

(だからと言ってそれに慣れて非人間的になれ、と言う意味ではないし、それをしてる人間が偉いわけでもない。そこんところを履き違えている(ようにしか見えない)政治家や官僚の多いことが問題である。もちろん真っ当な人もいるだろうし、そのようにしている政治家たちも全く何も考えていないか、と言ったら多分そうでもないのだろう、とも思ったりもする。するが、良いように考えすぎなのかも知れない)


だけど、世界は一握りのひとが決めたルールなり、仕組みなりで動くのよね。

そういう少しずつの色々が重なって、世界の構図が変わって、いろんなことが止めようのない物凄いことになって行くんだろうなと思う。戦争が1番分かり易いけれど。

ウクライナの主権を思えば、戦争になったこと、それを選んだことを批判できない。

でも今もまだ続く戦争で死んでいく人たちを思うと、なんのために、と思ってしまう自分もいる。何が正しかったのか、これもわからないし、こんな外から止めようもないし、どうしたら良いのかと思いながら何もできない自分がいる。

ガザ地区の悲惨な状況はどうしたら良いんだ、と思いながらも、デモに行くでもなく何を言うでもなくただここで自分のことをしている自分がいる。(とはいえ、あの地域のややこしさは私には理解しきれなくて発言する下地さえない、情けないことに)


けれど、今に始まったことでなく、私は全ての出来事を自分のこととして考えないといけないわけでもないでしょう?と言う冷めた視線も持っていることを自覚している。

だって神様ではないのだし、ただの人間としての私は、今ここにいて、たとえば携帯がなければ世界の海の向こうのことなんて何も知らず、せいぜい身の回りのことしか知りようもない。北海道や沖縄も、ガザもウクライナも、等しくわからない。

ニュースは昔からほとんど見ない。

だって、手も届かない場所のことを知ってどうするの?って思っているから。

知ることは大切だと言うこともわかるけれど、自分の手に負えない部分まで全て自分のこととして考えるのは、一種の傲慢ではない?と思う部分も持っている。


給食を残した時に教師に言われた「食べたいのに食べられない子も世界にはいるのよ」と言う言葉に、「だったら今残したこれを、今すぐその子にあげられるんですか?あげられないのなら、残したって同じことじゃないですか?」と言って大層怒られましたけれど、その頃と変わっていない私がおかしいのだろうか。おかしいんだろうなあ。(当時7歳)


でも、人間の性根って無理矢理変えないといけないものではないのでは…とも思うので。

そして出来ることや持てる時間は限られているので。


目の前の人を大切にすることも、目の前のやりたいことをやることも、等しく大切なことだと思うんだ。そこに余力があれば、献血に行ったり、仕事の質を高めたりする努力とか。

もしもさらに余力と少しの勇気が湧いたなら、せめて気になった点字ブロックのこととかは声を出せたら良いかなあ、とか思ったりしている。けどどうだろう、勇気が出る気がしない(役所の人苦手なんだよ…怖いんだもん…そもそもあれはどこの管轄なんだろうか)


そんなつらつらとしたオチのない考え事。

世の中の人は、どういうふうにこういうことを考えているのかなあ。

聞いてみたい気もする。でも、面倒臭い気もする(苦笑)

政治と宗教の話はするな、沈黙は金、と言う言葉もあることだし。

結局のところそれが1番なのかもなあ、と思う部分もある。(些細なことでいざこざや、気の使い合いが発生する居心地の悪さ、というのに繋がりかねないので)

臭いものには蓋、と言う言葉もあるな。

どういう態度が1番正しいのかねえ。答えの出ない正しさ。

人の数だけ答えがあるんだろうな、と思う。それだけが正しいことなのかも。

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